りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,176

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・作庭書「築山庭造伝・後篇下」⑧!

「築山庭造伝・後篇下」・・・秋里離島著 1828年の作

注意事項:「築山庭造伝・後篇」に関しては、他の作庭書以上に図面・イラストが多用されていると推定されるが、残念ながら中谷ゼミ資料に同添付はない。

16:大宮師富士氏(旧・静岡県富士郡大宮町のことか? 現在は富士宮市)の庭に関する解説

大宮師(意味不明)富士某(意味不明)の姓は和邇(ワニ=5〜6世紀の大和の豪族。ただし、ここでの関連性不明)で、上総(カズサ=現在の房総半島ほぼ全域)の長官某とも呼ばれていた。国造の記述(古事記・日本書紀等の国造神話部分に相当するのであろう)によると、和爾氏伯麿(個人名)は祟仁天皇(スイニンテンノウ=11代・伝説上の天皇。在位は99年間とされる)の子供で、40代・天武天皇二年(674年)の駿河国・国造等の記述によると(注:なぜ祟仁天皇・天武天皇等を登場させたのか意味不明。上総国・和爾氏等の関連性も意味不明)、この地に留まって富士の社(現在の「富士山本宮浅間大社」のことか? ただ、同神社に記載されている歴史と、「庭造伝」の記載内容とは合わない。別の神社である可能性も・・・)の宮司となった(「紆余曲折があったが、和爾伯磨は富士神社の宮司となった」と言う意味と推定される。だが、時代考証等に問題)。その詳細については聚国史(詳細不明。単に「日本の歴史書類」と言う事か?)などに記載されている。

補足事項:この部分は意味不明であると同時に、各登場人物の繋がりも良く分からない。著者・秋里離島が怪しげな歴史書の記述を丸写ししたのではないか?

そして、富士の社の庭は立派な築山や池があり、ぼぼ正方形で3.300㎡以上(方一千余坪)の広さがあった。

その庭からは富士山を見ることが出来た。そして、そこから見る富士山は正面の麓付近は樹林に埋め尽くされ、その有様は芙蓉の花を手に取って眺めるような美しさがあった。

国見丘は富士の社から約89歩(?)の所にある広場で、そこからの眺めは市街地を眼下にして、境内を見ることが出来るので実に素晴らしい。境内には天之浮橋と呼ばれる、長さ9m(5間)弱の橋が架かっており、池に浮かぶ中島に渡ることが出来る。池と橋の光景はまるで雲の上の世界のようにも見え、橋も雲間に浮いているようである。その他にも、名石・奇樹などが作庭に使われており、この庭は蓬莱庭と呼ばれていた。

同神社の茶間前に作られた庭園は宗偏(山田宗偏=江戸時代前期の僧侶。茶道・宗偏流を開いた)の作と伝えられるが、それが正しいか否かは良く分からない。その後この庭は何度か手を加えられ一層素晴らしくなり、座敷前の景観は文章や図描では表せないほどである。

そこで本日の一口アドバイス。

「富士宮の社に関する記述があまりにも不明瞭。歴史考証にも疑問・・・」

(りょう)

262:本宮

 

 

 

 

富士山本宮浅間大社

 

262:湧玉池

 

 

 

 

浅間大社・湧玉池

 

262:止観亭

 

 

 

 

 

 

 

宗偏流の茶室「止観亭」