りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,179

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「作庭書」が残したプラスとマイナス?

ある意味暴挙とも言える、大阪市立大学・中谷ゼミをベース資料とした、江戸時代以前の作庭書全訳がようやく終了しました。その内訳は、平安時代=「作庭記」、室町〜戦国〜安土・桃山時代=「嵯峨流古法秘伝書」「山水並野形図」、江戸時代=「築山山水伝」「夢窓流治庭」「築山庭造伝・前篇」「築山庭造伝・後篇」、の7作品となりました。

作庭書の紹介は、ある意味で日本庭園の歴史・作品紹介と一線を画するものです。にもかかわらず、このような事を試みたのは、古来から造園のプロはどのような事を考え、庭を作っていたかを知りたかったためです。また、日本庭園の百科事典的な役割を果たしたかったからです。結果、興味の無い読者にとっては苦痛な時間が続いたかも知れませんが、筆者は以下のような結論を見つけ出すことが出来ました。

1:「作庭記」が最高の作庭書であり、結局それを超える著書は登場しなかった。

2:「嵯峨流古法秘伝書」〜「築山庭造伝・後篇」に至るまで、非常に閉鎖的思考の上に成り立っており、「日本庭園」の発展を阻害した。

3:作庭技術を伝える資料としては、後世に貢献するものが多くあった。ただし、技術表記が体系的(教科書のような役割)に行われた「作庭書」は無く、それも不完全なものであった。

以上です。「作庭記」は「橘俊綱」の作とする説が有力です。これが事実とすれば、作者は藤原摂関時代のトップと直結する人物(藤原道長〜その子・藤原頼道〜その子・橘俊綱)であり、言い換えれば平安時代を代表する文化人の作品と言う事になります。従って、以後の作品とはレベルが違っても当然。このような論理も成り立ちます。ただし、レベル差が生まれたのは、それだけが原因ではない。筆者にはそう思えてなりません。

では、レベル差をより大きくさせた要因とは。「作庭書」を紹介し終えた現段階では、「利権主義から生まれた閉鎖性がこのような結果を無みだした」と言う確信に至りました。つまり、他の日本文化と同様、相伝性・家元的感覚が「作庭書」の魅力を半減させたと言う事です。だから、無意味な決め事を増やし、分かりにくい内容となりました。同時に、無理にシークレット部分を作るなどの弊害が生まれました。

日本庭園の歴史を辿ると、臨済禅の思想が日本に定着し、北山文化が栄えた「室町時代前期」に一定のピークに達します。夢窓疎石が活躍した時代です。しかし、その後は、普及率アップ・スケールアップと言った面では発展しますが、質的には下降線を辿ります。最大の原因は、日本庭園(部分的に外構)に精神性が失われ、形式主義的傾向が強まって行ったからです。部分的には、露地を代表する新しい庭園文化も生まれました。しかし、それもまた閉鎖性の中での変化に過ぎませんでした。

このような日本庭園の歴史と「作庭書」の歩みは、ある意味見事に一致しています。では、江戸時代末期=幕末の騒乱〜明治と言う新時代の到来。この大変化は、日本庭園・日本外構にどのような影響をもたらせたのでしょうか? 次項からは、動乱期の簡単な歴史〜欧米文化がもたらせた庭園の変化にスポットをあて、その後に、明治時代の「日本庭園と日本外構」を紹介していくことにします。

そこで本日の一口アドバイス。

「作庭書がもたらせたプラス面とマイナス面。それは庭園史の縮図!」

(りょう)

265:達磨大師

 

 

 

 

 

 

 

 

インド〜中国に禅思想をもたらした「達磨大師」

265:夢窓疎石

 

 

 

 

 

 

 

 

夢窓疎石像:岐阜県・永保寺所蔵