りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,187

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「奈良公園」と「大浜公園」とは?

引き続き、小沢圭次郎の作品を紹介します。この項で取り上げるのは、「奈良公園」と「大浜公園」。ただし、「伊勢神宮内宮・下宮」と同様、いつどの部分で彼が参画したのか判然としません。少なくとも、現在の両公園を見る限り、その足跡を追う事は不可能です。ただ、庶民の公的スペースと言う欧米的意識のもとに作られた公園であり、江戸時代の大名庭園とは決定的な相違が見られます。その計画に、日本の作庭家、あるいは日本の庭園研究者が深くかかわったこと自体に大きな意味を感じます。

「奈良公園」は言うまでもなく平城京(710〜784年)と深い関連性を持ちます。ごく大雑把に言えば、その中の東大寺・興福寺とその周辺を公園化し、観光・文化保護の一大拠点としたものと言えるでしょう。面積も660ヘクタールと言う広大なもので、奈良公園に含まれる主な建造物・施設は、東大寺・春日大社・興福寺・正倉院・奈良国立博物館・依水園・登大路園地・浅茅ヶ原園地・荒池園地・浮雲園地・春日園地・猿沢池園地・東塔跡園地・みとりい園地・若草山・・・などがあります。また、そこには餌付けされた野生の鹿が多数いて、観光の目玉になっていることも周知の通り。

公園としての歴史を辿ると、1881年(明治13年)に開園されました。これを見ても、規模だけではなく、日本で最も古い近代型公園の1つであったことが分かります。小沢圭次郎が直接「奈良公園」の改良計画に参画したのは1894年頃と伝えられています。従って、「奈良公園」が開園され十数年たった頃、さらに素晴らしい公園とするために、彼の手腕が発揮されたと推定されます。ただ、それ以前と具体的にどう変わったのかは、一般的な資料で確認する事は困難です。

「大浜公園」は大阪府堺市堺区大浜北町に作られた公園で、開園は1879年(明治12年)。堺市で最も古い公園です。その原点は、幕末期の砲台跡で、その周辺を整備し公園となりました。1903年(明治36年)には「第5回内国勧業博覧会」が開催され、その第2会場となり、この時にさらに整備が進んだと考えて良いでしょう。ただし、大沢圭次郎の足跡を辿ると、彼が「大浜公園」の整備事業に参画したのは1906年頃となっています。この記録が正しいとすれば、博覧会のための整備ではなく、その跡地利用計画に参画したと言う事でしょう。

しかし、他の作品同様、どの部分にどうかかわり、現代まで何が残されたかを確認する事は殆ど不可能です。また、昭和20年代のパンフレット(南海電鉄)を見ても、本格的な日本庭園の姿はありません。むしろ、洋風の庭・屋外スペースが目立ち、小沢圭次郎もそのような構成を提案していたのではないでしょうか?

そこで本日の一口アドバイス。

「小沢圭次郎は近代的都市計画・公園計画的な視点で参画?」

(りょう)

273:奈良公園案内図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

273:奈良公園

 

 

 

「奈良公園」パノラマ

273:若草山

 

 

 

 

 

若草山

 

273:昭和の大浜公園

 

 

 

 

 

昭和前期の案内パンフレット

 

273:大浜公園入口

 

 

 

 

 

現在の「大浜公園」入口付近

 

273:明治天皇御駐車之跡

 

 

 

 

 

 

明治天皇・駐車之跡