みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,211

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「日中戦争」勃発の本当の理由?

「昭和初期〜前記」の歴史について考察中。この項では「日中戦争(支那事変)」勃発の経緯について考えてみます。前述のように、1929年に田中義一内閣は張作霖謀殺の責任を取り解散しました。しかし、無謀な満州侵略に歯止めがかかるどころか、その後関東軍はその動きを活発化させ、暴走状況に至ります。

話は大正時代末期に遡りますが、加藤高明・若槻礼次郎と続いた護憲派の内閣、特に当時の外相・幣原(シデハラ)喜重郎は中国内政不干渉政策(通称・幣原外交)を展開しようとしますが、これを軟弱として批判し登場したのが、中国への軍隊派遣へと舵を切った田中義一内閣でした。一方、国内では、ほぼ同時期に施行された普通選挙制度下で初めて行われた、第16回衆議院選挙(1928年)で一定の票を集めた無産政党・日本共産党に対し「治安維持法」が発令され弾圧も顕著化します。

田中義一内閣は軍隊派遣により満州の植民地化を進めましたが、欧米列強と真っ向対立に関しては恐れていました。従って、政策とは相入れない不戦条約「パリ不戦条約」には調印。つまり、二枚舌外交を展開します。軍隊による中国支配・国内の左翼弾圧、しかし、表面上では不戦国家を偽装したわけです。しかし、このような小手先の技が長く通用するはずがありません。当然、欧米との決定的溝を作る事に成ります。

1929年に昭和天皇の不興を買い田中儀一内閣は解散(前項にて提示)。1931年に再び若槻礼次郎が総理大臣に就任(第二次若槻内閣)します。この内閣は立憲民政党が主導するもので、むしろ民主化志向の強いものでした。しかし、満州では中国人と朝鮮人の対立が強まり、いつ暴動が発生してもおかしくない不穏な状況下にありました。このため、関東軍は治安維持を名目にさらに支配体制を強化。それだけではなく、張作霖暗殺に続く謀略をさらにめぐらせ、意図的に支那事変を勃発させます。その謀略が「柳条湖事件」です。そして、誰もが知る1945年の敗戦まで、日本は泥沼の戦争を繰り返します。そう、多くの日本人は4年余りの太平洋戦争が、大惨事を生んだ戦争と勘違いしていますが、より残忍な支那事変(日中戦争)を経て、14年間も戦いを繰り返してきたことを忘れてはなりません。

「柳条湖事件」に話を戻します。同事件とは満州・奉天(現・瀋陽市)の柳条湖付近で関東軍が満州鉄道を爆破。そして、犯人は中国軍だと言う難癖を付けて周辺制圧に乗り出したと言うもの。まさに、謀略以外の何物でもありません。このような事を行えば、国民政府がだまっていないのは当然で、前述のごとく軍事衝突を引き起こし、支那事変へと突入します。勿論、関東軍は中国の反撃を待っていたわけで、以後周辺都市へと戦線を拡大して行きます。

この「柳条湖事件」の演出者が作戦主任参謀・石原莞爾中佐、実行指導者が高級参謀・板垣征四郎大尉でした。特に、石原莞爾は軍需の天才とも言われ、当時の大陸統治作戦を主導していたとされています。しかし、その石原莞爾でさえ、後に無差別とも言える戦線拡大には反対の意を示します。逆にこの時、戦線拡大論者の代表となったのが、後に関東軍指導者として加わったあの東條英機。そして、石原莞爾は失脚し表舞台から姿を消します。ただ、そのため彼は戦犯となる事を免れ、終戦後も生き残ります。一方、板垣征四郎・東條英機はA級戦犯として死刑になりました。

ここで重要な事は、柳条湖事件当時は、比較的民政を重視した第二次若槻内閣であったと言う事。そして、昭和天皇も張作霖暗殺のような謀略には反対していたと言う事。仮に、柳条湖事件の実行を関東軍が事前に報告していたとすれば、当然ストップをかけたでしょう。しかし、同謀略が実行されると、首謀者を罰し関東軍幹部を交代させると言った行動は誰も行わなかったと言う事。何の抑止力も働きませんでした。前項でも指摘しましたが、ここに日本人最大の弱点があります。しかも、その弱点は修正されるどころか、より顕著化しているように感じられます。

そこで本日の一口アドバイス。

「謀略の次もまた謀略。柳条湖事件で支那事変勃発〜14年戦争へ!」

(みずき りょう)

297:幣原喜重郎

 

 

 

 

 

 

 

幣原喜重郎

 

297:石原莞爾

 

 

 

 

 

 

 

石原莞爾

 

297:板垣征四郎

 

 

 

 

 

 

 

板垣征四郎