みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,212

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「満州国」とリットン調査団とは?

前述のごとく、日本は張作霖暗殺、柳条湖事件と言う謀略により支那事変(日中戦争)を勃発させます。それ以後の経緯を語る時、「満州国」創設、「リットン調査団」と言う2つの出来事について、どうしても確認しておく必要があります。

「満州国」とは、中国北東部に日本の意向により作られた国の事です。清国が滅亡した後に設立された中華民国は満州エリアを自国の領土だと主張します。しかし、同地はロシアや日本に租借されて部分が多く、日露戦争以降は殆ど日本が統治するような形になっていました。中華民国はその返還を求めたわけです。それに対する考え方は様々です。そして、筆者は元々中国の土地であり、緩やかな返還政策を取るべきであったと考えます。しかし、日本、特に関東軍の採った態度は全く逆でした。

そして、清国最後の皇太子・愛新覚羅溥儀を国主とし、日本の傀儡国家として1932年に作ったのが「満州国」です。この国を正当化する為、日本は同地域の民族自決、国民国家(通称「五国協和」)などと言うお題目を掲げますが、明らかに自らを正当化するためのこじ付けに過ぎません。ただ、いずれにしても「満州国」は中国とは別の国家。その要請を受けて、日本が協力統治していると言う形で、事実上の占領下に置いたことは間違いの無い事実です。

ここで前項を思い出してください。日本は「支那事変(日中戦争)」勃発、「満州国」創設と言った占領統治政策を実施しながらも、その前に「パリ不戦条約」に調印し、国際的には非覇権主義国を装っていたと言う事です。しかし、このような小手先のごまかしが通用するはずがありません。そしてある意味予想道理、国際連盟は「リットン調査団」を「満州国」に送り込みます。

結果は言うまでも無いでしょう。1933年、同調査結果として、国際連盟は日本の撤退勧告案を42対1で可決します。つまり、反対者は当事者の日本だけと言う事です。「リットン調査団」は欧米よりの視点で行われたとする見解もあります。しかし、世界中が反対したことに対し、1国だけが異を唱え逆行動を取る。これは、正気の沙汰と言えるものではありません。結果、当時の国際連盟代表担当の松岡洋右を通じ、1933年3月27日に、日本は国際連盟を脱退します。当然、この脱退により日本はさらに抜き差しならない状況に自らを追い込んでいきます。

ところが、ここで重要な現象が起きます。既に何度のふれたとおり、昭和天皇や日本の上層部は、中国北東部への過剰な覇権主義には反対の意向を示していました。国際連盟脱退に関しても、関東軍や財閥関係者等に引きずられた結果とも言えます。従って、国民やマスコミからも反対意見が強まると言う見方多かったわけです。しかし、予想に反してこの判断は称賛され、より覇権主義者の立場を有利にします。つまり、日本国民・マスコミ関係者の大半が、加害者であったと言う事。よく、「多くの国民もまた軍部独裁者による被害者であった」と言われます。しかし、むしろ加害者的側面が強く、自分自身で首を絞めて行った。そう考えるべきでしょう。

このような国民とマスコミの後押しの結果、井上準之前蔵相射殺、団琢磨三井銀行理事射殺、犬養毅首相射殺(五・一五事件)などが軍部により引き起こされ、日本は完全に民主国家的側面を失っていきます。そして、1936年の二・二六事件(軍部急進派により斎藤内大臣、高橋蔵相など多くの人が暗殺された)により、当時の岡田内閣は総辞職し、日本はほぼ完全な軍事独裁国へと変貌します。ここでもう一度繰り返して置きます。関東軍の暴走から、彼等を主軸とした軍国主義へと日本が変貌したもう一つの大きな要因は、日本の国民とマスコミにあります。いくら、関東軍の影響力が強かったと言っても、彼等だけでこのような暴挙が実現したわけではありません。

そこで本日の一口アドバイス。

「関東軍の暴挙を後押しした日本国民とマスコミ! この事実を見逃すな!」

(みずき りょう)

Emperor Henry Pu Yi, Puppet Monarch

 

 

 

 

 

 

 

愛新覚羅溥儀

 

298:満州国国旗

 

 

 

 

「満州国」国旗