みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,220

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「岸和田城八陣の庭」の真相に迫る①?

「重森三玲」3つ目の紹介作品として、この項からは「岸和田城八陣の庭」を取り上げます。ただし、まずは「岸和田城」自体について、その歴史を少し詳しく考証しておきます。

「岸和田城」は大阪府岸和田市城町にあり、千亀利城(チキリジョウ)とも呼ばれています。岸和田市は「だんじり(地車)祭り」でも有名な大阪・泉州を代表する町で、同城はその象徴的存在でもあります。その起源は足利尊氏の時代にまでさかのぼることが出来、1334年頃に和田高家(楠正成配下の武士)が、現城郭から500mほど東に岸和田古城を築いたのがスタートとされています。

その後、1400〜1500年頃には和泉国の守護・細川氏一統が領主となり岸和田地区を統治。しかし、御多分に漏れず同地区でも下剋上の動きがあり、守護〜守護代へと勢力が移行します。その守護代が松浦氏で、当時は三好氏が泉州地区にも勢力を伸ばしていましたが、松浦氏が統治を続けていました。三好氏の代行的存在であったのではないでしょうか。

さらに時代が下り、戦国時代には岸和田地区も織田信長の勢力圏内に入り、その命を受けた羽柴秀吉の紀州遠征に伴い再築城されました。この時活躍したのが小出秀政で、彼がその後城主となり、この時に5重の天守閣を作り、本格的な城郭が出来上がりました。

江戸時代になると、大坂冬の陣に対応するため、松平信吉が城主となり直轄に近い体制を取ります。その後、戦争終結に伴い、北条氏重、小出吉英、らが同城城主となります。しかし、1619年に松平康重が城主となって以降は、岡部氏(初代・岡部宣勝は徳川家康の妹の子)が統治し、事実上の直轄形態が、明治まで引き継がれます。城郭も随時強化された模様。

このように、徳川幕府が岸和田城を重視した理由としては、岸和田城は大阪城と紀州・和歌山城との中間点にあり、御三家のひとつ紀州家を監視するためと伝えられています。そのエピソードとして、岡部宣勝VS徳川頼宣(徳川家康の10男・初代紀州家当主)の緊張した対話が伝わっています。勿論、言い伝えであり、事実か否かは不明。ただし、現実に両氏が刃を交えた事は一度もありませんでした。

そこで本日の一口アドバイス。

「足利尊氏時代にスタート〜紀州家の監視役として活躍?した岸和田城」

(みずき りょう)

306:航空写真

 

 

 

 

 

 

 

岸和田城の航空写真

 

306:復元模型

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岸和田城の復元模型

 

306:天守閣

 

 

 

 

天守閣

 

306:本丸への虎口

 

 

 

 

復興された「多門櫓」(本丸への入口)

 

306:徳川頼宣

 

 

 

 

 

 

 

徳川頼宣(初代紀州家当主)