みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,048

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第30回:公園となった「サン=クルー城庭園」

 

「ル・ノートル」作品。4番目に紹介するのは「サン=クルー城」の庭園。ただし、同城は歴史の舞台に名を刻んだ貴重な存在ですが、現存せず庭園のみが公園となって一般開放されています。

「サン=クルー」とは地名で、フランスのオー=ド=セーヌ県内にある地域(コミューン)です。そして、「サン=クルー城」と言う城名はこの地名を取ったもの。

この城は、「オルレアン公・フィリップ1世」(1,640~1,701年)により、1,658年に創建されました。なお、「オルレアン公・フィリップ1世」(「フランス王・フィリップ1世」とは別人)は「ルイ14世」の弟であり、この城の作庭を「ル・ノートル」が担当したのもある意味当然と言えます。「ベルサイユ宮殿」は1,660年頃から20年以上の歳月をかけ完成しました。この年代を考えると、「サン=クルー城」の庭園はその少し前に造られたと考えられます。現在の「サン=クルー公園」を見ても、「露壇式庭園」と「平面幾何学式庭園」の両性格を備えていたように思います。

「オルレアン公・フィリップ1世」に話を戻すと、彼の性格は「ルイ14世」とは異なり、かなり内向的な面が強かったようです。子供のころから女装を好んだといった話も伝わっています。また、彼が男色者であった事も間違いあえりませんが、当時の支配者層では珍しいことではありません(日本の戦国時代などでも同様の習慣があった)。その一方で、妻との間に3人の子をもうけており、女性と男性の両方を愛するマイノリティ的な思考の持ち主であったと言う事でしょう。

その後、「サン=クルー城」は「ルイ16世」が1,785年に妻の「マリーアントワネット」のために購入し王家の持ち物になる・「ナポレオン1世」が1,804年に皇帝となったことをここで宣言する・・・など様々な歴史舞台に登場しますが、1,870年に「普仏戦争(プロセイン×フランスの戦争)」で焼失し、再建されることはありませんでした。

この結果、その敷地は公園となり庭園だけが残されました。従って、どの程度「ル・ノートル」が作定した当時の姿が維持されているかは不明。ただ、メイン空間とも言える段差をうまく使った水路・池・噴水等は往時の姿が維持されていると見てよいでしょう。となれば、傾斜を活用している点・設置物はかなり装飾性が強い・・・と言った印象が強く、「露壇式」の特性がかなり強い設計であったと推定されます。

その一方で、城周辺にはゆとりのある空間があり、敷地はかなり広大であった模様。つまり、「平面幾何学式」的な広大さも兼ね備えていたと推定されます。ただし、当時の設計図等は一般的資料では入手困難(現存するか否かは不明)で、「軸線(ビスタ)」を中心とした幾何学&左右対称のレイアウトになっていたか否かは不明です。

サン=クルー城庭園噴水全景

 

 

 

 

 

現在の「サン=クルー公園」・・・噴水部分全景。作庭当時の姿が残されている可能性が強い。

サン=クルー城庭園噴水アップ

 

 

 

 

噴水の主要部

 

サン=クルー城庭園噴水

 

 

 

 

別角度からの噴水

 

フィリップ1世

 

 

 

 

 

 

 

「オルレアン公・フィリップ1世」

 

サン=クルーのマーク

 

 

 

 

 

 

 

「サン=クルー」の紋章