みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,067

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第50回:「シェーンブルン宮殿」と庭園①

 

フランス・ドイツに続きオーストリアの「平面幾何学(フランス式)庭園」を取り上げます。まず登場するのは首都ウィーンにある「シェーンブルン宮殿」とその庭。実は、「シェーンブルン」は宮殿・庭園共にヨーロッパを代表する建造物で、オーストリア屈指の観光地でもあります。その分、資料も豊富に揃っているため、前編①・後編②の2回に分けて取り上げます。

まず「シェーンブルン宮殿」ですが、「ハプスブルク家」(南ドイツを代表する大貴族。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇った)の歴代君主が<夏の離宮>として活用していました。宮殿のルーツを辿ると、14世紀初頭に水車小屋があり、クロスターノイブルクと言う修道院が荘園として管理していました。しかし、1,529年にオスマン帝国により包囲され一度荒廃するなど、復活・荒廃を何度か繰り返します。

オスマン帝国の勢力が衰えると、「神聖ローマ帝国皇帝・レオポルト1世」の息子「ローマ王・ヨーゼフ」の離宮建設が始まり、これが「シェーンブルン宮殿」の元となります。しかも、同宮殿は神聖ローマ帝国の威信をかけたものとなり、<パリの「ヴェルサイユ宮殿」に対抗する>と言った意識も加わり、壮大な計画となりました。それが、<「シェーンブルン宮殿」第1案(1,688年作成・画像参照)>。

しかし、当時の「ハプスブルク家」は財政面でひっ迫していた模様で、計画は縮小され<丘陵地活用をあきらめ、その下の平地に主要な建物を建てて、そこに両ウィングを付ける>案に変更。それが、<「シェーンブルン宮殿」第2案(1,695年作成・画像参照)>で、実際には第2案をベースに、「マリア・テレジア」の治世下であった1,750年に完成。言うまでもなく、それが現在の「シェーンブルン宮殿」の原型。

完成後も、「ハプスブルク家」の人々はこの宮殿を愛し、1,762年には「マリア・テレジア」は「モーツァルト」を呼び演奏会を行った、「オーストリア皇帝・ヨーゼフ1世」は毎年春と秋をこの宮殿で過ごし、余程気に入ったのか、晩年は常駐地とするようになり、同地で1,916年に崩御した・・・など、多くのエピソードが残されています。

その後、オーストリア帝国は最後の皇帝「カール1世」が退任し、1,918年に「オーストリア共和国」が誕生。同時に、「シェーンブルン宮殿」も同政府の所有物となり現在に至っています。そして、「シェーンブルン宮殿」とその庭園は、重要な歴史建造物と言うだけではなく、公園・動物園として現在も活用され、年間700万人もの人が訪れる、オーストリア屈指の観光地となり活躍を続けています。

シェーンブルン宮殿

 

 

 

 

 

 

 

 

「シェーンブルン宮殿」全景

 

「シェーンブルン宮殿」第1案

 

 

 

 

 

 

「シェーンブルン宮殿」第1案(1,688年作成)

 

「シェーンブルン宮殿」第2案

 

 

 

 

 

「シェーンブルン宮殿」第2案(1,695年作成)

 

シェーンブルン宮殿の位置

 

 

 

 

 

「シェーンブルン宮殿」の所在地

 

「鏡の間」

 

 

 

 

 

 

「鏡の間」・・・「モーツァルト」が演奏したと言った記録も。

 

10歳のマリー・アントワネット[5][6]

 

 

 

 

 

 

 

 

10歳当時に「マリーアントワネット」・・・彼女も「シェーンブルン宮殿」で多くの時間を過ごした。