みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,221

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「岸和田城八陣の庭」の真相に迫る②?

「岸和田城」について言及しました。引き続き、本題である同城本丸に造られた「八陣の庭」について検証します。

「岸和田城八陣の庭」は1953年(昭和28年)に「重森三玲」の設計・作庭により造られた庭です。全体的な特色としては、①:天守閣上からの眺めを意識し、鳥瞰的なレイアウトにこだわった ②:諸葛孔明(三国志に登場る蜀の代軍師)の戦術・八陣をイメージして造られた・・・以上2点を挙げることが出来ます。庭の形式は枯山水と言う事に成りますが、そのような範疇外と言うべき庭園かもしれません。

「重森三玲」がなぜこのように変わった庭園を造ったのか。意見の分かれるところですが、筆者にはかなり「遊び心」のウエイトが高かった、そのように思えてなりません。例えば、全体的な構成や石組の面白さを楽しむことは勿論、その石組で表現された、大将&8つの陣、さらには敵と戦う時それがいかなる行動を取るのか、と言った薀蓄を述べて楽しむ。そのような意識が働いていたと思われてならないからです。いずれにしても「八陣の庭」は伝統的構成から一線を画した、画期的現代庭園の草分けとして高い評価を受け、国の名勝にも指定されています。

「八陣の庭」の構成について、もう少し詳しく解説しておきます(写真参照)。その名の通り、戦の陣取りをイメージした構成で、中央に「大将(本隊)」をイメージした最大の石組を配置。当然のことながら、ここが総司令本部でもあり周囲の各陣に指令を発すると言う役割を持っています。

その周辺には、立石組の「天陣」・背の低い石を地中に深く埋めた「地陣」・7つの石が暴風を表す「風陣」・3個の石が流れる雲を表す「雲陣」・竜が天に上る様子を表した「竜陣」・9個の石を使って虎の吠える迫力を表した「虎陣」・8個の石により鳳凰が飛ぶ様子を表した「鳥陣」・3個の横長の四を使い蛇の姿を現した「蛇陣」・・・以上8組の石組が設置され、これが言うまでも無く「八陣」と言う構成に結び付いています。

「大将」と「八陣」の周辺には低い石垣が幾何学的に配され、全体は陣形を形取っていますが、城の平面図のようにも見えます。さて、貴方は「八陣の庭」には何が語られていると・・・

そこで本日の一口アドバイス。

「重森三玲の遊び心が作りだした合戦絵巻・八陣? あなたの解釈は?」

(みずき りょう)

307:設計図

 

 

 

 

 

「八陣の庭」の設計図

307:鳥瞰写真

 

 

 

 

鳥瞰写真

 

307:八陣の庭

 

 

 

 

「八陣の庭」と天守閣

 

307:大将

 

 

 

 

「大将」

 

307:天陣

 

 

 

 

「天陣」

 

307:地陣

 

 

 

 

「地陣」

 

307:風陣

 

 

 

 

「風陣」

 

307:雲陣

 

 

「雲陣」

 

307:竜陣

 

 

 

 

「竜陣」

 

307:虎陣

 

 

 

 

「虎陣」

 

307:鳥陣

 

 

 

 

「鳥陣」

 

307:蛇陣

 

 

 

 

「蛇陣」

 

いろんな世界。

一番下の娘が 保育園に通うことになりました。

まだ 慣らし保育で 初めは 1時間で帰され

お昼ご飯を食べてから 帰ってきたり

お昼寝をして 寝起きで帰ってきたり

しています。

今日は お昼寝のあとの 3時のおやつを食べて帰ってきます。

本人は 大人ばかりのところにいたせいか

先生には とても早くなつき

お友達とは だんだん 交流がもてるようになってきたようで

ぜんぜん泣きもせず すんなりと お教室に入っていってしまいます。

母 さみし…

新しい生活に とまどっているようですが

楽しんでいるようで ホッとしています。

これから どんどん いろんな世界に出会っていくんですよね。

頑張れ 1歳児!!

お庭にピザ窯(石窯タイプ)を施工しました!!! 奈良市

店長の藤田です。

 

もしかすると、このタイプのピザ窯、実際にお客様の庭での製作は第一号ではないのでしょうか!!!!!

 

マツモト産業さんの耐火モルタルの特徴を生かした石窯タイプのピザ窯。

 

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詳しくは当店ホームページのこちらをご覧ください。

 

コーディネーター/現場管理 藤田

施工 feel free garden

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,220

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「岸和田城八陣の庭」の真相に迫る①?

「重森三玲」3つ目の紹介作品として、この項からは「岸和田城八陣の庭」を取り上げます。ただし、まずは「岸和田城」自体について、その歴史を少し詳しく考証しておきます。

「岸和田城」は大阪府岸和田市城町にあり、千亀利城(チキリジョウ)とも呼ばれています。岸和田市は「だんじり(地車)祭り」でも有名な大阪・泉州を代表する町で、同城はその象徴的存在でもあります。その起源は足利尊氏の時代にまでさかのぼることが出来、1334年頃に和田高家(楠正成配下の武士)が、現城郭から500mほど東に岸和田古城を築いたのがスタートとされています。

その後、1400〜1500年頃には和泉国の守護・細川氏一統が領主となり岸和田地区を統治。しかし、御多分に漏れず同地区でも下剋上の動きがあり、守護〜守護代へと勢力が移行します。その守護代が松浦氏で、当時は三好氏が泉州地区にも勢力を伸ばしていましたが、松浦氏が統治を続けていました。三好氏の代行的存在であったのではないでしょうか。

さらに時代が下り、戦国時代には岸和田地区も織田信長の勢力圏内に入り、その命を受けた羽柴秀吉の紀州遠征に伴い再築城されました。この時活躍したのが小出秀政で、彼がその後城主となり、この時に5重の天守閣を作り、本格的な城郭が出来上がりました。

江戸時代になると、大坂冬の陣に対応するため、松平信吉が城主となり直轄に近い体制を取ります。その後、戦争終結に伴い、北条氏重、小出吉英、らが同城城主となります。しかし、1619年に松平康重が城主となって以降は、岡部氏(初代・岡部宣勝は徳川家康の妹の子)が統治し、事実上の直轄形態が、明治まで引き継がれます。城郭も随時強化された模様。

このように、徳川幕府が岸和田城を重視した理由としては、岸和田城は大阪城と紀州・和歌山城との中間点にあり、御三家のひとつ紀州家を監視するためと伝えられています。そのエピソードとして、岡部宣勝VS徳川頼宣(徳川家康の10男・初代紀州家当主)の緊張した対話が伝わっています。勿論、言い伝えであり、事実か否かは不明。ただし、現実に両氏が刃を交えた事は一度もありませんでした。

そこで本日の一口アドバイス。

「足利尊氏時代にスタート〜紀州家の監視役として活躍?した岸和田城」

(みずき りょう)

306:航空写真

 

 

 

 

 

 

 

岸和田城の航空写真

 

306:復元模型

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岸和田城の復元模型

 

306:天守閣

 

 

 

 

天守閣

 

306:本丸への虎口

 

 

 

 

復興された「多門櫓」(本丸への入口)

 

306:徳川頼宣

 

 

 

 

 

 

 

徳川頼宣(初代紀州家当主)

ガーデンパーティ+初夏の施工相談会のお知らせ

2015チラシ5月おもてweb用 2015チラシ5月裏.jpg web用

 

5/28の朝刊の折込チラシに入る予定です。

5/30.31のイベントの詳細も記載されております。

折込チラシの入らない地域の方はこちらを参考になさってくださいね。

 

三重県いなべ市 造園・外構・エクステリア お庭づくりのプロショップ

寺本
GARDEN ART

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