門周りを素敵に。外構リフォームのご提案です。

既存住宅をご購入のお客様。
以前の家の持ち主の方がDIYで塗られたのかどうも門周りの塗装が。。そしてポストも壊れている・・・・。
ほとんどの部分は生垣があるのに一部だけ、低木になっていてちょうど目隠しが欲しい。

そんなご要望を頂き、プランニングしてみました!!

 

既存

 

 

 

 

 

 

 

 

現況はこんな様子です。
塗装も剥がれかけていたり、門扉も傾いていたり、ポストも壊れていたり、と色々、手を加えるところがありそう。。。。あと門袖が低いので、
背を高くしたいというご要望も承りました。

ということで、こんなプランをご提案しました。

どうぞっ!!

 

イメージパース

 

 

 

 

 

 

 

 

 

門周りをご希望通りタイルで仕上げるご提案なのですが、ちょうど建物は白く綺麗な塗装をされているので、白と黒のツートーンな
ボーダータイル張をご提案。笠石をのせて普通にタイル張にするのではなく風格のあるイメージをご提案してみました。なんとも和風モダンです。

どうも視線が気になるぞという植栽が抜けている場所はなにか目隠しを。。。。
せっかくの石積と生垣等ナチュラルな印象で仕上げられている外観なので、単純にアルミ等の目隠しフェンスではなく自然木をご提案、ということでアイアンウッドのモダンな縦格子の目隠しをご提案しました。

完成が楽しみです。

店長の藤田でした。

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,020

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・戦国時代の庭園、変遷と特性?

前項では「戦国時代」~「江戸草創期」の作庭家について言及しました。続いて、同時期の庭園の変遷と特性について考えてみたいと思います。

「戦国時代(安土・桃山時代を含む)」とは応仁の乱(1467年~)頃から、最長で大坂夏の陣終了(1615年)までを指します。江戸時代のスタートは、徳川家康が征夷大将軍となった(1603年)時からとするのが一般的ですが、ここでも夏の陣頃までを含めて状況分析していきます。

「戦国時代」の庭園を語る時、応仁の乱を無視することは出来ません。鎌倉時代と異なり、足利幕府が京都に置かれていたため、朝廷・公家・上級武士の大半が京都に集まり、殆どの文化がそこで生まれ、発信地にもなっていたからです。室町時代の庭園も同様で、夢窓疎石が一部地方に造ったものを除き、当時の名庭と呼ばれる作品も京都に集中していました。だからこそ、大部分が応仁の乱で消失し、多大な被害を受けたからです。

応仁の乱後も戦乱が続き、京都とその周辺では、消失した名庭の再建、新庭の創建など不可能な状態で、戦国時代前期は日本庭園の不毛時代となってしまいました。では、同時代には日本中から庭園が姿を消し、新しいものが造られることはなかったのでしょうか。幸いなことに、そうではありません。

「戦国時代前期」は室町幕府(足利将軍)の威光が多少残っていた時代でもありました。従って、地方の名士でもあった守護職等の有力武士には、朝廷や将軍家に近づくと言う目的もあり、文化を受け継ぐと言う慣習が残っていてからです。だからこそ彼らは、東山文化を引き継ぐ、茶道、華道、能楽(当時は猿楽)、絵画、等を積極的に取り入れました。

庭園も同様で、当時の名士たちの館には様々な庭が造られ、その名残を今日に留めています。ただ、朝倉氏、北畠氏、朽木氏の庭園など優れた作品もありますが、全体的なレベルダウンは否めませんでした。主に京都にいたと推定される作庭集団(山水河原者)も、腕を振う場が極めて少なく、不毛な時を過ごしていたのではないでしょうか・・・

「戦国時代前期」の庭園の特色としては、武将庭園と言う表現に象徴されるように、豪壮な石組が最大の特色。ただ、地元の石、地形を活用して、適当に配置したと言った感覚の庭の方が多かったと思われます。

また、外構と言う視点では、唐門(弓を横にしたような「唐波風」がある門)と言われる元は中国風の門が流行する事も付記しておきます。門・塀の建築工法は、木造・土塀など大きな変化は見られません。ただ、このような門が多数登場するのは、戦国期からと見てよいのではないでしょうか。

ただし、「戦国時代後期(安土・桃山時代)」に入ると、織田信長、豊臣秀吉と言う巨星が、東山文化の伝統を受け継ぎながらも、より派手好みの文化(安土・桃山文化)を生み出します。庭園もまた同様で、特に、豊臣秀吉・徳川家康は、名庭の復活、新庭の作庭に熱心で、現在も最高峰として高い評価を受けている作品が、少数ではありますが、京都とその周辺を中心に造られまました。

その時、直接的な役割を果たしたのが、賢庭、小堀遠州、上田宗箇、などの作庭家であったのは言うまでもありません。ただ、彼等の主力作品は、贅を尽くした珠玉の名庭であることに間違いはありませんが、少しずつ形式主義に陥り、退化の第一歩が始まったようにも感じられます。筆者の私見ではありますが、夢窓疎石の作品等と比較すると、デザイン構成的なものは進歩していますが、精神的広がりがむしろ無くなったようにも感じます。

もう1点、「戦国時代後期」の庭園で見逃してはならない動きがあります。それは、「茶道」との関連性です。まず、塔頭(たっちゅう)寺院、貴族・豪族関連の建造物に、室町時代以降、茶室が多く造られるようになります。「戦国時代後期」になると、その茶室を意識した庭園も登場します。ただ、その後茶室専用の庭園・露地が多数登場するのは江戸時代からで、「戦国時代後期」はその前段階と見た方が良いでしょう。

また、「室町時代」からの、もう少し長いスパンで見ると、次第に庭園のパーソナル化が進んだと言う点も見逃せません。その切っ掛けとなったのが、枯山水の登場ではないでしょうか。

枯山水は限られた空間に造られる庭であるからです。「室町時代前期」には、まだ1つの敷地内に複数の庭園を造ると言った習慣は殆どありません(地形を活用し、2つのポイントに分かれた庭園はあったが)でした。しかし、枯山水の登場で、書院庭園のように部分的に視点を変えたスペースが登場したからです。

さらに、パーソナル化が次第に進み、戦国時代後期」になると、建物・目的に合わせ複数の庭園が造られることが珍しくなくなります。そして、その発展形が露地と言えるのではないでしょうか。さらに、江戸時代の主役となる大名庭園(全ての庭園形態・様式を取り込んだ、公共スペース的な総合ガーデン)へと変化していきます。

そこで本日の一口アドバイス。

「戦国前期=日本庭園受難時代~戦国後期=贅を尽くした珠玉作品登場!」

(りょう)

 

 

 

 

 

唐門(戦国時代以降に流行?)

洋館風の建物を飾る。アイアンウッドを使用した落ち着いた印象のナチュラルオープン外構 大阪市O様邸

総レンガ張の洋館風の建物。
庭部分が面している道路は人通りが大変多いという都心独特の敷地条件です。
キーポイントは庭部分の目隠し。そしてこだわりの植栽。風水。

そして、これは大阪市内特有なのですが、建ぺい率は90%までOK。元々他の場所に駐車場をもっておられるお客様のため、
外構スペース自体が通常より面積が少なく、そのため動線等も意識した計画が必要。

そんなお客様のこだわりにお応えする、自然素材を多用し、どっしりとした洋館風の建物と相性のいい落ち着いた印象の外構計画を
ご提案しました。

 

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施工写真です。

 

 

全景

 

 

 

 

 

 

 

 

全景です。
敷地にいっぱい建てられた重厚感のある色調の濃い総レンガ張の建物。
全体的に「落ち着いた印象」がお好みのようした。また、当店ホームページももともとご覧になっておられ、天然木を使った外構にとても興味をお持ちでした。

玄関横のシンボルツリーがとても印象的な外構になりました。
このシンボルツリー実は、あの木なんです。詳細は下をご覧ください。

写真の右下、鬼門の位置にはきちんとヒイラギが。

 

目隠しフェンス

 

 

 

 

 

 

 

庭部分にはアイアンウッド”マニルカラ材”で作る目隠しをご提案。
視線の高さは隙間を狭目に、足元部分は広めにして、デザイン性もあり、コストパフォーマンスも高いご提案をしました。

 

他にもこだわりがいっぱいの都心外構。

 

詳しくは当店ホームページのこちらをご覧ください。

 

 

お打ち合わせ・設計・CADオペレーション担当   藤田
施工管理 担当  藤田・橋本
施工 有限会社アドバンス・松盛園

 

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,019

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・戦国時代の作庭家とその実像?

「戦国時代」の庭園について検証しました。続いて、一つの日本庭園黄金期とも言える「江戸時代初期」にテーマが移るわけですが、その前に、同時代の作庭家、庭園の特性、鎌倉~戦国時代後期までの庭園書、について考えます。まず、この項では作庭家について・・・

 

この「日本庭園***」シリーズには、橘俊綱(平安時代)、夢窓疎石(鎌倉後期~室町前期)、善阿弥(室町時代)、相阿弥(室町時代)、賢庭(戦国後期~江戸初期)、小堀遠州(戦国後期~江戸初期)の6人の作庭家が登場しています。ただし、同じ作庭家と言っても、プランナー的な人と現場監督的な人に分かれ、前者は、橘俊綱・夢窓疎石・相阿弥・小堀遠州、後者は善阿弥・賢庭が当てはまります。

その違いは、前者はプラン作成や監修を行い、貴族・僧侶・上級武士・総合芸術家など、多様な顔を持っていました。一方、後者の場合は庭を造る職人~現場監督に昇格した人と考えられます。しかも、彼等は河原者(レベルの高い技能者集団を山水河原者)と呼ばれる、平民以下の身分の人たちでした。従って、あまり詳しい資料は残っていません。

「戦国時代」に目を転じると、登場人物の中で、相阿弥、賢庭、小堀遠州、の3名が対象と言う事になります。ただし、相阿弥については既に触れました。また、同時代ではもう一名・上田宗箇と言う重要人物がいます。従って、ここでは賢庭・小堀遠州・上田宗箇の3名を、戦国時代(実際には戦国時代後期~江戸時代初期)を代表する作庭家として取り上げておきます。

まず、賢庭ですが、戦国時代後期(安土・桃山時代)を代表する作庭家として、各方面にその名前が登場します。しかし、生・没年を含め殆ど詳しいことは分かりません。ただ、実務的作庭家(現場監督のような)であったことは間違いなく、特に石組に関して非凡なものを持っていたと伝えられています。彼がなぜ有名かと言うと、「圓徳院」「三宝院」「仙洞御所」「前田家の庭」等の作庭でその名前が登場するからです。また、善阿弥のような山水河原者であったとする説が有力で、後半は小堀遠州の傘下に入り作庭に従事したと言われています。

小堀遠州(1579~1647年、本名・政一)は戦国後期~江戸初期に活躍した大名です。茶人、建築家、作庭家など、多面的な活躍があり、上級武士・芸術家・建築造園家と言った多面的な顔を持つ人物でもあったわけで、遠州守と言う役職に就いたことがあり、ここらら遠州と呼ばれるようになりました。

作庭家としても著名で、遠州作と言われる多くの庭園を残しています。ただ、彼の作と証明されているのは「金地院庭園」だけで、実際には別の作庭家の作品が含まれている可能性もあります。また前述のように、賢庭も晩年は小堀遠州の傘下に入ったため、プランは遠州・実務は賢庭と言った作品も多いと考えるべきでしょう。

上田宗箇(1563~1650年、本名・安重)もまた遠州と同様、戦国後期~江戸初期の上級武士です。しかも、茶人(上田宗箇流の流祖)としても知られていたため、当時は上級武士で芸術家としての才能を持った人物は、茶道、建築、造園等に係ることが多かったとも考えられます。宗箇の作品としては、旧徳島城表御殿庭園、上田家の萬春園(広島)、名古屋城二の丸庭園、などが知られています。

そこで本日の一口アドバイス。

「江戸時代以前の庭園は芸術家と山水河原者の共同作業で・・・」

(りょう)

 

 

 

 

 

賢庭の石組?(圓徳院)

 

 

 

 

 

 

 

 

小堀遠州画

 

 

 

 

 

上田宗箇の甲冑と陣羽織

打倒!スギナ!!

「庭に 生えてくるスギナに ホトホト参ってしまって…」と

なにかいい対策はないかと 相談に 来店くださいました。

閑静な住宅街の メッシュフェンスで囲まれた お庭は

まわりからの 見通しが とてもいいので

使いい勝手のいい

なおかつ見栄えのいいお庭を お客様と打ち合わせをして

素敵なプランを ご提案させていただきたいたいと

思います。

A様 これから よろしくお願いいたします。

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