木製エクステリア・・・eggの仲間に不可能はない!

「ウリン材」を使った「ハイデッキ」・・・これがプロの仕事!

木製エクステリア・・・その最大の魅力は「殆ど何でもできちゃう」と言う事。しかも、材料の選び方+設計+施工の仕方で、デザイン性、耐久性、強度も抜群!(私たちは、木樹脂以上の品質を実現できると確信しています!) 

下の写真は、そんな作品例の1つ「ハイデッキ」。勿論、天然木ですが「ウリン」呼ばれる、水よりも重くて堅く、耐久性抜群の材料を使っています。だから安心、だから長持ち。でも、一般のお店ではちょっと問題も・・・ それは、硬くて重いから、施工が極めて難しいと言う事。でも、eggの加盟店なら、こんな難題もすぐ解決。お客様との綿密な打ち合わせが出来る窓口「egg加盟店」×木のプロ「木匠(もくしょう)」のコラボレーションで、写真のような作品をご提供できるからです。

今回の作品は、「ライフアップ」×「木匠」の共同作業によるもの。勿論、コンサバトリー、ガレージバルコニー、超大型カーポート、超大型デッキなど全てOK! お気軽に、最寄りの「egg加盟店」または「木匠」にお問い合わせください。

 

 

 

 

 

施工前

 

 

 

 

 

 

完成現場

 

 

 

 

 

 

別角度の完成現場

 

あの加工が難しい「ウリン」でこんな事が出来るなんて・・・感動!

昨日と本日のご契約物件のご紹介 アメリカンカントリーのオープン外構と曲線美を追求した天然木のエクステリア

昨日、本日と新築外構のご契約を頂きました。誠にありがとうございます。
一つ目、アメリカンカントリーをイメージしたフェンスを生かしたカントリー風オープン外構です。

 

アメリカンカントリー

 

 

 

 

 

 

 

アメリカンフェンスとよく呼ばれる白のフェンス。このアイテムと相性のいい門周りは???そして玄関扉を多少なりとも目隠ししたいというご要望をいただきオススメしたのは当店母体会社「港製器工業」オリジナルアイテムの機能門柱パリーナフィーラ。
実 は最初はアイアンテイストの機能門柱をご希望だったのですが、お客様はこのアメリカンフェンスを大変気に入っておられ、カントリーテイストの外観にどうも 色調的にも馴染まない・・・ということで、白の機能門柱で、なおかつ少しアイアンテイストの意匠性ももった機能門柱であるこのパリーナフィーラをセレク ト。

実際に当店の敷地内に展示しており現物を見て決めていただきました。
駐車スペースが縦列駐車で少し駐車しにくい、玄関扉への多少の目隠しの機能も持って欲しいということでこのような配置となりました。

 

曲線美のオープン外構

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらも玄関を開けた時の視線にこだわってシンボルツリーを配置しています。
お客様が曲線のデザインに大変こだわっておられ、通常タイル張のスクエア形状にする玄関ポーチも「曲線にしたい」というご要望。
住宅会社さんでは曲線デザインの玄関ポーチに対応できないということで、外構工事として施工することになりました。

こちらのお客様は実は、来年1月頃、建築工事完工予定のお客様。
つまり、ご相談いただいたのが、建築設計前です。
初回のお打ち合わせで「建物のGL(グランドライン)が低すぎて駐車スペースの勾配が取れない」という問題点があり、建築の設計変更をお願いしました。

外構工事のご相談というと早くて建物の設計が終わった段階、遅い場合だと建物が完成してからというのが通例になっていますが、
こ ういうトラブルや建築工事に付随する工事で「できない」と言われたことを外部空間で実現できるのは早い段階でのご相談があってこそ。また外構のご予算もあ る程度明確にしておけば資金計画の際、概算予算を組んでいたものの「ああ外構予算が足りなくて思い通りのエクステリアが実現できない・・・」という問題も 少なくなります。

建物の新築をご検討の際は設計確定前のご相談を!!

深基礎敷地を生かしたウリン材製ハイデッキ 宝塚市

その敷地のあまりの眺望のよさを気に入ってご購入された分譲宅地。約3mほどの高低差のある法面のある独特の敷地条件です。そしてその法面には深基礎が施工されており、掃き出し窓があります。
こんな空間を生かすために高耐久木材「ウリン材」を使った背の高いウッドデッキ「ハイデッキ」をご提案しました。

 

施工前

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どういう敷地かというと、こういう状態の敷地です。
掃き出し窓があり、このスペースを生かさない手はない!!!ということで、このスペースに高さのあるウッドデッキ「ハイデッキ」を施工することになりました。

他社さんのご提案だと、鉄骨を組んで樹脂木を載せて・・・ということで価格もとても高い!!!

いえいえ、当店にはそう、高耐久木材「ウリン材」を使ったアイテムがあります。

 

完成後

 

 

 

 

 

 

 

 

詳しくは当店ホームページのこちらをご覧ください。

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,042

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「江戸時代前期」の文化と大芸術家!

「江戸時代前期」と言う時代について検証中です。この項では、その文化特性と大芸術家について考えます。

室町時代前半には、武家と皇族・貴族の文化が融合した「北山文化」が生れました。続く室町時代中期~戦国時代には、スケールダウンし、やや退廃した「東山文化」が登場します。さらに、織田信長・豊臣秀吉と言う派手好みの支配者が登場し、「安土・桃山文化」へと引き継がれます。ただ、これらの文化は表面的には大きな変化があっても、本流は同じと見るべきでしょう。要するに、武家と言うものをベースとして生まれた文化で、「北山文化」を原点とし、各時代性がプラスされたと言う事です。

「江戸時代草創期」もほぼ同様と考えて良いでしょう。ただ、徳川家の専制、鎖国などの影響もあったのでしょう、閉鎖性・排他性と言う傾向が顕著になります。特に世襲制・特定人物だけへの伝達制度がその発展性を阻害します。初歩的な家元制度もこの頃確立されたと推定され、さらに大きなマイナス要因となりました。無意味な決まり・制度が過剰評価され、創造性がどんどん阻害されて行ったからです。例えば、茶の湯の世界では、様々なシステム(決め事)が「江戸時代草創期~江戸時代前期に確立されたようですが、千利休を超えるようなものは何も生れていません。

ただし、同時代に卓越した大芸術家が一人登場します。「本阿弥光悦」(1558~1637年)です。彼は、刀剣鑑定と言う特殊な世界から、総合芸術の世界へと足を踏み入れます。その出身の特殊性ゆえ、安土・桃山時代以降に顕著化する閉鎖性・排他性の世界に埋没することなく、自由に羽ばたいて行った、筆者はそう考えています。暴論でしょうか?

本阿弥光悦は、書と陶芸をベースに、総合芸術の世界を確立します。そして、徳川家康の庇護?(朝廷とのつながりもあり、影響力を恐れ遠ざけた、と言う説もある)もあり、1615年に通称・光悦村と呼ばれる芸術村を京都・洛北に開きます。そして、多方面に才能を発揮し、絵画の世界では、俵谷宗達・尾形光琳らとともに琳派の創始者にも名を連ねています。

ただ、彼の作品と呼ばれているもには、装飾性を徹底的に排除したもの(主に茶碗等の陶芸品)~極めて装飾性の高い物(主に漆器)まで様々。それを、幅広い芸術性の証と取るか、光悦以外の作品も彼のものとされたためと取るか、諸説があります。筆者は専門家ではありませんが、彼の書に俵谷宗達が絵を添えた作品(写真参照)、陶芸品など、間違いなく光悦作品と呼ばれているもの、初期の琳派作品(豪華な材料は使っているが、色使い・構図は極めてシンプル)などを見ると、後者の説が正しいように思えます。なお、「光悦村」はその後日蓮宗・光悦寺となり、庭園・外構の世界でも、光悦寺垣にその名が残されています。

「江戸時代草創期」~「元禄時代」(江戸時代前期の終盤)になると、もう一つの文化が登場します。「元禄文化」と呼ばれるもので、上方(大坂・京都)の町人を中心に定着していきます。俳句の松尾芭蕉、小説の井原西鶴、文楽の竹本義太夫・近松門左衛門、歌舞伎の坂田藤十郎・市川團十郎、浮世絵の菱川師宣・・・などがその代表的存在で、統一性が無く雑然としているが、これまで以上のエネルギーを秘めた世界と言えるかもしれません。

いずれにしても、「江戸時代前期」の文化は、伝統的な部分では排他性が目立ち、表面上は広がったが、矮小な世界に埋没した。その一方で、上方の町人をベースに「元禄文化」は生まれ、大都市中心に爆発的なエネルギー秘め、広がって行った。このような2極性を持っていた。そう考えて良いでしょう。では、庭園の世界は・・・

そこで本日の一口アドバイス。

「伝統的芸術は排他主義の横行で低迷。その一方で町人文化も・・・」

(りょう)

 

 

 

蓮下絵和歌巻:書・本阿弥光悦、画・俵谷宗達

 

 

 

燕子花図:尾形光琳

 

 

 

 

 

 

 

 

見返り美人図:菱川師宣

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,041

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「江戸時代前期」と言う時代?

安土・桃山時代までの「日本庭園と日本外構」について検証してきました。続いて、この項からは同テーマで「江戸時代前期」にスポットを当てます。まずは、「江戸時代前期」とはどのような時代であったかの確認から。

「江戸時代」とは一般的に1603年の徳川家康征夷大将軍就任~1867年の徳川慶喜大政奉還までの、約260年間を指します(若干の異説有)。そして、この260年間の中の元禄時代(1688~1704年)までを「江戸時代前期」と考えて良いでしょう。つまり、初代・徳川家康、2代・秀忠、3代・家光、4代・家綱、5代・綱吉の時代、約100年間と言う事になります。

同時代最大の特色は、戦国時代が終了し、安土・桃山時代(織田・豊臣時代)を経て、完全に平和な時代へ移行したと言う事。社会の安定と同時に、経済が爆発的に成長し、日本の歴史の中でも屈指の高度経済成長期であったと言われています。その一方で、文化面でも、東山文化~安土・桃山文化~元禄文化へと、大きな広がりを見せます。乱暴な表現かもしれませんが、「江戸時代前期」=「おおむね良い時代」と言っても良いでしょう。

もう少し具体的に歴史の流れを追います。織田信長が1580年代にほぼ天下を統一し、同時に戦国時代が一段落します。そして、彼は本能寺の変(1582年)で明智光秀により抹殺されますが、豊臣秀吉が逆にこれをチャンスとして、完全に天下を統一。この期間を言うまでもなく安土・桃山時代と呼びます。ただし、天下は統一されましたが、勢力争いは続き、やがて石田三成を代表とするグループ(西軍)と徳川家康を代表とするグループに2分され、1600年の関ケ原合戦で激突、家康グループが勝利し、事実上の徳川の世となります。そして、前述のごとく1603年に家康が征夷大将軍になり「江戸時代」の正式スタートとなります。

ただ、経済的にみると、この間に別の顔が見えてきます。最初の動機は、戦争のための資金が欲しかったためかもしれませんが、織田信長は徹底的な規制緩和策を取ったと言う事。これが、経済大発展につながったと言う点です。そして、信長ほどではありませんでしたが、豊臣秀吉も緩和路線を維持し、経済成長が持続し、これが結果として「江戸時代前期」に大きく貢献します。経済発展は当然文化面でもプラスに作用しました。

ただし、徳川家康は緩和策から規制策へと別の舵を切ります。国全体の経済発展よりも、徳川家安定&経済独占≒規制路線を打ち出したと言う次第。その初期的な対策が、許可制の貿易です(オランダとの通商許可証発行<1609年>)で、さらに長崎・出島以外での貿易禁止(鎖国。北海道、琉球島では一部例外もあった)など、3代将軍・家光の時代までに規制体制が完全に整います。

また、鎖国の決定的要因となったのが、キリスト教弾圧に対抗した反乱・島原の乱(1638年4月終結)でした。肥前(熊本県)島原で起こった事件ですが、これによりキリスト教弾圧がさらに強まり、鎖国の徹底につながったからです。ただし、日本人の海外進出は続き、その代表的出来事が、山田長政のタイ国での活躍です。

以上を総括すると、①:江戸時代前期は一部反乱事件を除き平和な時代であった ②:平和と徳川政権維持のために規制策が重視された ③:規制策は重視されたが、織田信長以来の経済発展+農業の発展で、好景気は元禄時代まで維持された ④:政治の中心は江戸であったが、大坂(現在の大阪)が経済都市として発展し、同時に特有の上方文化も生まれた ⑤:国全体としては、徳川家に従属する藩が地方を統治し、日本特有の政治形態と流通機構が定着した・・・などを上げることが出来ます。

そこで本日の一口アドバイス。

「江戸時代前期=おおむね良い時代。だが、中期へのマイナス要因も・・・」

(りょう)

 

 

 

 

 

 

 

初代:徳川家康

 

 

 

 

 

 

 

 

2代:徳川秀忠

 

 

 

 

 

 

3代:徳川家光

 

 

 

 

 

 

 

 

4代:徳川家綱

 

 

 

 

 

 

 

 

5代:徳川綱吉

 

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