高槻枚方あるある外構 モダンとナチュラルの融合 スーパーフェンス応用編

外壁塗装等建物の外観をリフォームした際、それに伴う外構リフォームを検討される方も多くいらっしゃると思います。
今回はスーパーフェンス等港製器工業製品を使った自然素材とアルミ材を融合したモダンさとナチュラルさを兼ね備えたプランのご紹介です。

 

緑豊かな印象の外観。
ガーデニングを愛好されている方だと憧れる方も多いのではないでしょうか。
しかし現実問題として、既存の建物の外壁塗装をリフォームしても建物の形や素材そのものが、洋風ではない場合、いわゆるガーデニングをイメージした洋風エクステリアはなかなか合わせづらいもの。
そこで、港製器工業のスーパーフェンス柱と高耐久木材を使って、自然素材とアルミ素材を融合したモダン×ナチュラルなエクステリア計画はいかがでしょうか。

まずは施工前のイメージです。

 

狭小地モデルプラン施工前

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回も高槻枚方によくある外構をベースにプランニングしてみます。

 

狭小地モデルプランスーパーフェンス編

 

 

 

 

 

 

 

このプランでは、スーパーフェンス柱の持つモダンな印象と、木製立体トラスを用いた壁面緑化、ハードウッド材を組み合わせた自然素材とアルミ素材の融合をテーマにした独特の個性的なプランとしました。

 

詳細は当店ホームページのこちらをご覧ください。

 

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,071

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「知恩院」とその名園とは①?

江戸時代前期の庭園を紹介中。この項では、「南禅寺」に続き「知恩院」とその庭を取り上げます。

「知恩院」も、室町・戦国のコーナーで一部取り上げました。「南禅寺」同様、同時代から活動していた寺院であったからです。ただし、室町・戦国期には浄土真宗ほど信者の数は多くなかったようで、寺としてのスケールも小さかった模様。また、御多分に漏れず応仁の乱で完全焼失し一時期滋賀県に移転するなど、建造物として同時代の面影を留めるものは殆どゼロの状態。現在の「知恩院」は江戸時代前期以降に随時再建されたもので、改めて江戸時代前期を代表する寺院・庭園として取り上げました。

「知恩院」は京都市東山区にある浄土宗の総本山。山号は華頂山で、正式名称は「華頂山知恩院大谷寺(かちょうざんちおんいんおおたにでら)」となります。面白いのは、本尊は法然上人+阿弥陀如来と言う点。これは、浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)特有のもので、当時は仏教宗派と言うより新興宗教に近い存在であったと考えるべきでしょう。開基(創始者)は勿論法然。

寺歴を辿ると、法然が後半生を過ごし没した地に建てられたのが「知恩院」の元(この風習も浄土真宗が真似る)。ただし、創建当初は小規模なもので、現在のように大規模な伽藍構成となったのは、前述のごとく江戸時代前期以降。浄土宗は徳川家が信仰対象とした宗派でもあり、幕府の肝入りで復興作業が実施され、今日の礎を築いたと解釈してよいでしょう。

法然は1133年、美作国(岡山県)に生まれ、18歳の時比叡山に入り修行します。しかし、43歳(1175年)で阿弥陀如来信仰=専修念仏と言う思想を説き、比叡山を後にします。これが浄土宗のスタートとなりますが、政府の弾圧を受け、流罪になるなど波乱万丈の人生を送り80歳(1212年)没します。その後半生の主力活躍場所・没所となったのが、「知恩院」と同地です。しかし、1277年には延暦寺宗徒により破壊され、1234年に弟子の勢観房源智が再興。この時、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されようやく公的にその活動が認められました。その後も何度か災禍・再興を繰り返します。

江戸時代に入ると、徳川家康が「知恩院」の再建を指示(1608年)。以後、徳川秀忠も再建事業を受け継ぎ、1621年に三門が完成するなど、巨寺として生まれ変わり現在に至ります。

現在の伽藍構造を見ると(境内案内図参照)、三門(国宝、現存する三門では日本一)、御影堂(本堂・国宝、1639年・徳川家光が建立)、経蔵(重要文化財)、大鐘楼(重要文化財)、大方丈・小方丈(重要文化財)+庭園、勢至堂(重要文化財)、阿弥陀堂、宝仏殿、権現堂、山亭&庭園、法然上人廟、多宝塔、濡髪大明神、友禅園&庭園、など多様な建造物があり、まさに京都を代表する大寺という事が出来ます。

そこで本日の一口アドバイス。

「法然の活動拠点〜江戸時代前期に巨大寺院に変身し現代へ・・・知恩院!」

(りょう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内案内図

 

 

 

 

 

 

三門(国宝)

 

 

 

 

 

御影堂(本堂・国宝)

 

 

 

 

 

大方丈(左・重要文化財) 小方丈(奥・重要文化財)

 

 

 

 

 

勢至堂(重要文化財)

 

 

 

 

 

 

 

 

多宝塔

 

 

 

 

 

法然上人廟

 

 

法然上人行状図

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,070

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「南禅寺」とその名園とは②?

引き続き「南禅寺」について述べます。ただし、この項では同寺の外構・ガーデンにテーマを絞ります。

「南禅寺」を外構と言う視点でとらえると、「勅使門(中門)」「三門」と言う2つの重要文化財がメインとなります。まず、外周を囲む塀の部分に「勅使門」があります。同門は1641年に再建され、明正天皇より御所内の「日の御門」を拝領・移築したものと伝えられています。古い時代には、勅使を迎える時だけに開かれたため「勅使門」(「南禅寺」以外の「勅使門」も同様)と言う名がついていますが、現在は昔の習慣に従い、定期的に開かれます。なお、通常の寺領への出入りは、「勅使門」に隣接する「中門」で行います。

続いて参道中央に「三門」があります。同門を仏教的に捉えると、修行で悟りに至るために通過すべき3つの過程を現します。門はその象徴であることは言うまでもありません。その一方で「山門」とも表記され「南禅寺」の「三門」は登竜門(仏道への最初の入り口)=寺内聖域への入り口と言うことに成ります。従って「天下竜門」と言う別名も持っています。現在の「三門」は1625年に藤堂高虎が大坂夏の陣で命を落とした人たちの菩提を弔うために再建したもの。上層に五鳳楼と呼ぶ楼を持つ、巨大かつ日本三大門に指定される門。重要文化財にも指定されています。

一方、「南禅寺」の主要庭園は方丈周辺に集中しています。メインとなるのは「方丈庭園」「小方丈庭園」「六道庭」の3ヶ所。その中でも「方丈庭園」が最大で「小堀遠州」作と言われています。江戸時代初期の様式を明確に伝える代表的「枯山水庭園」でもあり、南〜西にかけて5本の定規線を配した薄青色の築地塀で囲まれる東西に長い長方形庭園。

石組は塀に添う形で配され、須弥山、蓬莱山などの宗教的世界観が組み込まれています。ある意味非常に形式的な構成で、「遠州」イズム?がそこに反映されていると言えるかもしれません。また、横に並べられた石の配列を俗に「虎の子渡し」とも呼びます。その前には白砂だけの大空間が広がり、「方丈庭園」自体が1つの宇宙(世界)感を構成していることは言うまでもありません。

「小方丈庭園」は別名を「如心庭」とも。昭和41年に当時の柴山全慶官庁の「心を表現せよ」と言う志向のもとに、彼の直接指導の下に作庭されました。極めて哲学的思考の強い庭園ですが、江戸時代とは無縁です。

「六道庭(りくどうてい)」は、その名が示すように「如心庭」との絡みが極めて強い庭です。言うまでもなく「如心庭」が悟りの光景であれば、「六道庭」は現実の苦悩を現した庭であるからです。天上・人間・修羅・畜生・地獄と言う六道を表現しているのでしょうが、凡夫である筆者にはこじつけのようにも見えます。「如心庭」と対である以上「六道庭」も昭和の作品と考えてよいでしょう。

そこで本日の一口アドバイス。

「江戸前期を代表する方丈庭園。だが、あまりにも形式的で?部分も・・・」

(りょう)

 

 

 

 

勅使門

 

 

 

 

三門

 

 

 

 

 

方丈庭園全景

 

 

 

 

 

方丈庭園・虎の子渡し

 

 

 

小方丈庭園・ 如心庭

 

 

 

 

 

六道庭

都心の新築外構オープンとクローズ外構を比較してみる

敷地面積は約44坪。北面と東面が道路と接していて、最大で道路との高低差が約400mmという敷地条件です。
また南面、西面の境界処理が必要です。

①車の保有台数は1台。

②正直オープンかセミすクローズ(門扉を付ける)かを決めかねている

③駐輪台数が多く自転車バイク等4~5台の駐輪スペースは確保したい。

④駐輪と自家用車には屋根が欲しい

⑤南面は一度芝生にチャレンジしたい

⑥経年劣化の少ない素材を希望

といったご要望。
まずはご予算的に100~200万の間でできれば安く抑えて検討して欲しいというご要望でした。

まずはオープンプラン。
オープン外構

 

 

 

 

 

 

 

そしてクローズプラン。

 

クローズプラン

 

 

 

 

 

 

 

さて、二つは機能・デザイン等何に違いがあるのでしょうか。

 

詳しくは当店ホームページのこちらをご覧ください。

りょうさんの:エクステリア&ガーデンメモ

 

「りょうさんの:ほぼ毎日、エクステリア&ガーデンメモ」・・・NO2,069

 

「日本庭園と日本外構 編」・・・「南禅寺」とその名園とは①?

江戸時代前半の代表的庭園を紹介中。この項からは「南禅寺」を取り上げます。ただ、「南禅寺」に関しては、室町・戦国時代を代表する寺院としても、既に少し紹介しました。当時から大きな影響力を持つ大寺であったからです。ただ、戦乱で完全焼失し、当時の面影を示すものはほとんど残っていません。そして、現在に至る「南禅寺」は1605年以降に随時再建されたものです。従って、改めて、江戸時代前期を代表する寺院・庭園として取り上げます。

「南禅寺」は京都府左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派の大本山。山号は瑞龍山で、正式名は太平興国南禅禅寺となります。本尊は釈迦如来で、開基(創始者)・亀山法皇、開山(最初の住職)・無関普門(大明国師)。また、日本初の禅系統勅願寺(天皇・上皇直系の寺院)で、京都五山・鎌倉五山の上を行く別格寺院でもあります。

もう少し詳しく寺歴を辿ります。現在「南禅寺」がある場所には、同寺建立以前に後嵯峨天皇が1264年に造営した離宮・禅林寺殿(ぜんりんじどの)がありました。この離宮は上の御所・下の御所に分かれ、上の御所内に建設された持仏堂を「南禅院」と称しており、これが「南禅寺」の別院・南禅院として引き継がれたとの事。

その後、亀山上皇が40歳(1289年)の時に出家し法王となり、1291年に禅林寺殿を寺院とするにあたり、無関普門(当時80歳)を呼び最初の住職とします。この時「龍安山禅林寺禅寺」と命名。これが「南禅寺」直接の期限となります。また、無関普門を開山とするにあたり、当時禅林寺殿には妖怪が出没し法王・官人を悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れ禅林寺殿を訪れると、彼らが座禅を組んだだけで退散しました。そのため彼を住職に招いたと言う伝承があります。また、無関普門は長野県出身で、40歳で宋に留学し10年以上を過ごしたという、日本を代表する禅僧の一人でもあります。また、1352年には「夢窓疎石」も同寺に住したとの事。

しかし、「南禅寺」は臨済禅を代表する寺院でありながら、応仁の乱で完全焼失(1467年)し、江戸時代まで放置状態にありました。しかし、1605年に崇伝と言う僧が入寺。彼は「黒衣の宰相」とも呼ばれる政治家でもあり、徳川家康の側近として社寺復興政策に携わります。当然のことながら、これを機会に「南禅寺」の再興も急速に進み、現在に至ります。

現「南禅寺」の伽藍を確認(境内案内図参照)しておくと、勅使門(1641年再建)、法堂(1895年焼失〜1909年再々建)、三門(1628年再建)、方丈+庭園、別院・塔頭、などで構成。また、湯豆腐、哲学の道との隣接、敷地内を流れる琵琶湖疏水橋なども含め、京都でも屈指の名所となっています。

そこで本日の一口アドバイス。

「江戸時代前期に再建された、臨済宗最高峰の寺院・南禅寺!」

(りょう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内案内図

 

 

 

 

 

 

三門

 

 

 

 

 

 

法堂

 

 

 

 

 

 

 

 

方丈

 

 

 

 

 

 

金地院

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