みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,068

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第51回:「シェーンブルン宮殿」と庭園②

 

引き続き「シェーンブルン宮殿」について。この項では庭園に関して少し詳しく検証。

庭園は宮殿の背後に広がっており、「マリア・テレジア」の時代から造営が始められました。その様式はフランス・バロックと呼ばれるもので、シェーンブルンの丘の「グロリエッテ」「ネプチューンの噴水」などをメインとし、ローマ遺跡風の石造物や「ボスケ」とその関連の迷路庭園、動物園、ヨーロッパ最大の温室、さらには日本庭園などがあり、見る者を楽しませてくれます。

また、宮殿前から庭園へはミニ鉄道も走っています。そして、9つの駅があり約45分で一周。従って、散策の途中で疲れた場合この鉄道を利用する事も可能です。いずれにせよ、園内にミニとはいえ鉄道が走っていること自体、その巨大さを想像させる材料となるでしょう。

庭園の中心となるのが丘の上にある池と、その前に建てられた「グロリエッテ」と呼ばれる長さ約100mの回廊建築物。この建物は1,775年に、プロセイン戦争の勝利と戦没者慰霊を目的として造られました。それだけ重要な意味を持つ歴史的建造物ですが、残念ながら第二次世界大戦で破壊され、現在あるのはその後の再建物です。また、この池は庭園の水路・噴水などのための貯水池としての機能も果たしています。

その他の庭園の見どころとしては、「グロリエッテ」共に庭園の中心部となる「ネプチューンの噴水」、それに「ローマの廃墟」「オベリスクブルネン」「ボスケ」「日本庭園」「パルメンハウス(植物園)」「ウィーン動物園」などがあり、その特性等を以下の列記しておきます。

「ネプチューンの噴水」・・・海神「ネプチューン」の像を中心に、息子「アキレス」のトロイへ旅立つ息子「アキレス」、その無事を祈る母「テティス」などのシーンを形作る造形物。半人半獣(海神)・カバなどの像も配されている。

「ローマ廃墟」・・・本物の廃墟ではなく、そのイメージで新築された建造物。1,776年に「ホーエンベルク」と言う建築家の設計されたもの。モルダウ川とエルベ川の合流地点をイメージしたものと言われている。

「オベリスクブルネン」・・・これもまた「ホーエンベルク」の作品。1,777年完成。

「ボスケ」・・・「ボスケ」とは幾何学的に刈り込まれた植栽の事。特に、妖精の泉をイメージした部分が美しいとされている。また、迷路も。

「日本庭園」・・・1,913年に当時流行していたジャポネスクの影響を受けて、皇位継承者「フランツ・フェルディナント大公」が造営した庭園。しかし、翌年(1,914年)に大公戦死・第一次世界大戦でオーストリアの関連庭師戦死などの不幸が重なり荒廃。1,996年3月に荒廃前は日本庭園であったことが確認され、その後日本の協力で修復され現在に至っている。

「パルメンハウス(温室)」・・・世界最大規模の温室。熱帯・亜熱帯植物が多数収集されている。

「ウィーン動物園」・・・1,752年につくられた、貴族が楽しむための小動物を集めた動物園(メネジェリー)が元となっている。その後、数多くの改修が繰り返され、オーストリアを代表する動物園となった。世界最古の動物園としても広く知られている。

 

グロリエッテ

 

 

 

 

 

 

 

「グロリエッテ」と池

 

 

ネプチューンの噴水池

 

 

 

 

 

「ネプチューンの噴水」

 

ローマの廃墟

 

 

 

 

 

「ローマ廃墟」

 

オベリスクブルネン

 

 

 

 

 

「オベリスクブルネン」

 

ボスケ(英語版)

 

 

 

 

 

「ボスケ」・・・幾何学的植栽

 

日本庭園

 

 

 

 

 

 

「日本庭園」

 

パルメンハウス

 

 

 

 

 

「パルメンハウス(温室)」

 

シェーンブルン動物園

 

 

 

 

 

「ウィーン動物園」

 

シェーンブルン案内地図

 

 

 

 

 

 

 

 

「シェーンブルン宮殿」案内図

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,067

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第50回:「シェーンブルン宮殿」と庭園①

 

フランス・ドイツに続きオーストリアの「平面幾何学(フランス式)庭園」を取り上げます。まず登場するのは首都ウィーンにある「シェーンブルン宮殿」とその庭。実は、「シェーンブルン」は宮殿・庭園共にヨーロッパを代表する建造物で、オーストリア屈指の観光地でもあります。その分、資料も豊富に揃っているため、前編①・後編②の2回に分けて取り上げます。

まず「シェーンブルン宮殿」ですが、「ハプスブルク家」(南ドイツを代表する大貴族。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇った)の歴代君主が<夏の離宮>として活用していました。宮殿のルーツを辿ると、14世紀初頭に水車小屋があり、クロスターノイブルクと言う修道院が荘園として管理していました。しかし、1,529年にオスマン帝国により包囲され一度荒廃するなど、復活・荒廃を何度か繰り返します。

オスマン帝国の勢力が衰えると、「神聖ローマ帝国皇帝・レオポルト1世」の息子「ローマ王・ヨーゼフ」の離宮建設が始まり、これが「シェーンブルン宮殿」の元となります。しかも、同宮殿は神聖ローマ帝国の威信をかけたものとなり、<パリの「ヴェルサイユ宮殿」に対抗する>と言った意識も加わり、壮大な計画となりました。それが、<「シェーンブルン宮殿」第1案(1,688年作成・画像参照)>。

しかし、当時の「ハプスブルク家」は財政面でひっ迫していた模様で、計画は縮小され<丘陵地活用をあきらめ、その下の平地に主要な建物を建てて、そこに両ウィングを付ける>案に変更。それが、<「シェーンブルン宮殿」第2案(1,695年作成・画像参照)>で、実際には第2案をベースに、「マリア・テレジア」の治世下であった1,750年に完成。言うまでもなく、それが現在の「シェーンブルン宮殿」の原型。

完成後も、「ハプスブルク家」の人々はこの宮殿を愛し、1,762年には「マリア・テレジア」は「モーツァルト」を呼び演奏会を行った、「オーストリア皇帝・ヨーゼフ1世」は毎年春と秋をこの宮殿で過ごし、余程気に入ったのか、晩年は常駐地とするようになり、同地で1,916年に崩御した・・・など、多くのエピソードが残されています。

その後、オーストリア帝国は最後の皇帝「カール1世」が退任し、1,918年に「オーストリア共和国」が誕生。同時に、「シェーンブルン宮殿」も同政府の所有物となり現在に至っています。そして、「シェーンブルン宮殿」とその庭園は、重要な歴史建造物と言うだけではなく、公園・動物園として現在も活用され、年間700万人もの人が訪れる、オーストリア屈指の観光地となり活躍を続けています。

シェーンブルン宮殿

 

 

 

 

 

 

 

 

「シェーンブルン宮殿」全景

 

「シェーンブルン宮殿」第1案

 

 

 

 

 

 

「シェーンブルン宮殿」第1案(1,688年作成)

 

「シェーンブルン宮殿」第2案

 

 

 

 

 

「シェーンブルン宮殿」第2案(1,695年作成)

 

シェーンブルン宮殿の位置

 

 

 

 

 

「シェーンブルン宮殿」の所在地

 

「鏡の間」

 

 

 

 

 

 

「鏡の間」・・・「モーツァルト」が演奏したと言った記録も。

 

10歳のマリー・アントワネット[5][6]

 

 

 

 

 

 

 

 

10歳当時に「マリーアントワネット」・・・彼女も「シェーンブルン宮殿」で多くの時間を過ごした。

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,066

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第49回:「カールスルーエ宮殿」とその庭園

 

ドイツにある「平面幾何学式庭園」。最後に「カールスルーエ宮殿」とそこに併設された庭園を紹介します。

「カールスルーエ宮殿」は、ドイツ南西部のバーデン=ヴェルテンヴェルク州の街「カールスルーエ」にあります。ただ、この街にあるための命名と言うよりは、「カールスルーエ宮殿」が出来た事によりこの街もまた誕生したと言う経緯があり、日本の城下町のような都市と言うべきです。補足するなら、「カールスルーエ」の人口は約30万人で、州都「シュットガルト」に続き、「マンハイム」共に第二規模の都市でもあります。

「カールスルーエ」の「カール」は18世紀に同地を統治していた貴族「カール家」の名前から来ており、「エール」と言うのは休憩所の意味。従って、<カール家の人々が住んでいて所>と言ったイメージでしょうか?

街と宮殿は「カール3世ヴィルヘルム」が築いた城が元となっています。しかし、「大同盟戦争」と呼ばれる戦いでフランス軍が街と同城を破壊。その後、1,709年に「カール3世ヴィルヘルム」が、元の場所から5キロほど西に場所を移し、現在地に城の再建を開始し、1,715年に基本部分が完成、それが現「カールスルーエ宮殿」です。

つまり、「カールスルーエ」は城を中心にし計画的に造られた街だと言う事。具体的には、宮殿から放射状に主要道路が広がっておりドイツを代表する<二大バロック都市>と呼ばれています(もう1つの都市は同じバーデン=ヴェルテンヴェルク州の「マンハイム」)。

「カールスルーエ」を生み出した「カール3世ヴィルヘルム」(1,679~1,738年)は、神聖ローマ帝国が派遣した同地の統治者(「バーデン=ドゥルハラハ辺境伯」)でその在位は1,709~1,738年。従って、着任と同時(30歳)城(宮殿)を再建し始め、6年後に正式に「カールスルーエ」に移り住んだと言う事になります。なお、彼の後を継いだ孫の「カール・フリードリヒ」も街と同家の繁栄に貢献し、この間に都市の歴史・骨格が固まりました。

それほど「カール家」の人々は、街にとっても重要人物であったわけで、中心部の「マルクト広場」にはモニュメント的なピラミッドがありますが、「カール3世ヴィルヘルム」は今もその地下に眠っています。

なお、「カールスルーエ宮殿」は「ベルサイユ宮殿」を見本として建造されたとも言われており、壮麗な建物と庭園は歴史的建造物としても高く評価されています。その象徴となる中心部の八角形の塔と周りは、現在は州立博物館となっており一般公開。今も、文化・観光の代表エリアとなっています。

カールスルーエ宮殿

 

 

 

 

 

 

 

 

「カールスルーエ宮殿」全景・・・中心部・八角形の塔が特徴(現在は州立博物館)

 

鳥瞰図(1721年)

 

 

 

 

 

 

宮殿の鳥瞰図(1,721年作成)

 

ピラミッド

 

 

 

 

 

 

「マルクト広場」のピラミッド・・・この下に「カール3世ヴィルヘルム」が今も眠っている

 

Markgraf Karl Wilhelm von Baden-Durlach Halbstück in Herrscherpose Weitere Zuordnung unbekannt Laut LMZ Stadtgeschichtliche Sammlungen KA

Markgraf Karl Wilhelm von Baden-Durlach
Halbstück in Herrscherpose
Weitere Zuordnung unbekannt
Laut LMZ Stadtgeschichtliche Sammlungen KA

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カール3世ヴィルヘルム」の肖像画

 

紋章

 

 

 

 

 

 

 

 

「カールスルーエ」の紋章

 

地図(位置)

 

 

 

 

 

 

 

バーデン=ヴェルテンヴェルク州と「カールスルーエ」の位置

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,065

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第48回:「ヘレンハウゼン王宮庭園」とは

 

ドイツの「平面幾何学式(フランス式)」庭園を紹介中。今回は、同国中北部の街「ハノーファー」にある「ヘレンハウゼン王宮」とその庭園を取り上げます。最も、同王宮は4つの庭を持ち、メインの大庭園は「平面幾何学式」ですが、他の3つは別様式。また王宮自体より、広大な庭園がむしろ主役と言える歴史建造物でもあります。

「ヘレンハウゼン王宮」の歴史を見ると、同地の統治を任されていた「ゲオルク公」が持つ菜園が始まりとされています。彼は、1,665年に息子「ヨハン・フリードリヒ」が生まれると、そこに城を建設し同時に村の名前を「ヘレンハウゼ」に改名。これが言うまでもなく王宮・庭・そして地名の元となりました。

その後、「ヘレンハウゼ」がある現ニーダーザクセン州のハノーファーは1,814年に独立国「ハノーファー王国」となります。そして、「ゲオルク3世」~「ゲオルク5世」まで5人の王が統治者となりますが、1,866年に「プロイセン王国」に併合され、1,946年まで同国の「ハノーファー県」となります。そして、現在はドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州の州都「ハノーファー」(人口約53万人)内の街となりました。

「ヘレンハウゼ王宮庭園」は前述のごとく、北部の「ベルク庭園」・南部の「大庭園」・南東部に伸びた2つの「イギリス式庭園」(「ゲオルゲン庭園」 &「ベルフェン庭園」)から成り立っています(案内図参照)。

以下は4庭園の概要

*ベルク庭園・・・植物園となっている。シンプルな菜園などが中心。他にハノーファー王家の霊廟・水族館などがある。

*大庭園・・・メイン庭園で「平面幾何学式」。年間を通じ様々な催しものも開催されている。

*ゲオルゲン庭園・・・「風景式(イギリス式)庭園」。庭園内に「ウィルヘルム・ブッシュ博物館」などがある。

*ベルフェン庭園・・・「風景式(イギリス式)庭園」。現在は「ハノーファー大学」の敷地となっている。

ハノーファーの国章

 

 

 

 

 

 

 

 

旧「ハノーファー国」の国章

 

 

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「ヘレンハウゼン王宮庭園」の案内図

 

 

大庭園&城

 

 

 

 

 

 

 

「大庭園」から王宮を臨む

 

 

大庭園航空写真

 

 

 

 

 

 

「大庭園」の航空写真

 

 

霊廟

 

 

 

 

 

 

ハノーファー王家の霊廟(ベルク庭園)

 

 

水族館

 

 

 

 

 

水族館(ベルク庭園)

 

 

1708年頃の図面

 

 

 

 

 

 

1,708年頃の「大庭園」絵図

 

 

https://hdl.loc.gov/loc.pnp/ppmsca.00448

https://hdl.loc.gov/loc.pnp/ppmsca.00448

 

 

 

 

 

 

1,895年頃の「ヘレンハウゼン王宮」

 

 

 

ハノーファの紋章

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハノーファー」の紋章

 

みずきりょう の:エクステリア&ガーデンメモ NO3,065

「世界のガーデン」第七章:「平面幾何学式(フランス式)庭園」

 

第47回:「ツヴィンガー宮殿」とその庭園

 

ドイツの「平面幾何学式(フランス式)」の流れを汲む庭園を紹介中。今回は「ツヴィンガー宮殿」とその庭を紹介します。

「ツヴィンガー宮殿」はドイツのザクセン州の州都「ドレスデン」にあり、その建物は有名な「ドレスデン美術館」の構成物としても知られています。

「ツヴィンガー宮殿」の歴史を辿ると、中世から近代にかけて同地を支配してきた「ザクセン公国」の王の一人「フリードリッヒ・アウグスト1世」(在位1,694~1,733年、ただし、彼はポーランド・リトアニア王でもあった)により建造されました。

「ツヴィンガー宮殿」の原型は12世紀に既に築かれておおり、その後改修・拡張工事も随時行われています。しかし、それまで建物は木造で、1,687~1,689にかけて外遊を続けた「フリードリッヒ・アウグスト1世」は「ザクセン王」の住処にはそぐわないと考え、石造りに建て替え庭園にも手を入れ、それが現在の「ツヴィンガー宮殿」へと繋がっています。

宮殿建造の経緯を辿ると、1,709年に建て替え計画がスタート。1,711年建築開始。1,719年落成とほぼ10年の時が費やされています。また、その後も随時手が加えられ、実際に完成したのは1,728年頃とされています。また、1,733年に先代を引き継いだ「フリードリッヒ・アウグスト2世」も近くを流れるエルベ川側に「ホフ協会」を建てるなど、同宮殿建築群の充実化に尽力しました。

1,800年代に入っても宮殿は手を加えられ、美術品の収集場所としても使われるようになります。また、1,869年には「センパーオーパー」の愛称で知られる歌劇場も建設。しかし、このように進化を遂げてきた「ツヴィンガー宮殿」も第二次世界大戦下の1,948年に爆撃により焼失してしまいます。

ただし、大戦終了後間もない1,951年から中庭の公開を機会に補修が始まり、1,963年にはほぼ元の姿を取り戻します。そして、現在は前述のごとく「ドレスデン美術館」の一部にもなり、貴重な歴史的建造物として多くの人が訪れるようになっています。

また、「ツヴィンガー宮殿」は「マイセン」の焼き物も展示されるなど、陶芸に関しても重要な役割を果たしていたことが縁で、伊万里・有田焼で知られる佐賀県西松浦郡有田町に「有田ポーセリンクパーク・ツヴィンガー宮殿アートギャラリー」が造られ、その外形の一部を再現。また、内部では焼き物の展示も行われています。

ドレスデンの紋章

 

 

 

 

 

 

 

ドレスデンの紋章

 

 

ツヴィンガー宮殿の中庭

 

 

 

 

 

 

 

「ツヴィンガー宮殿」の中庭

 

 

アルテ・マイスター絵画館

 

 

 

 

 

「ツヴィンガー宮殿」は「ドレスデン美術館」内の「アルテ・マイスター絵画館」としても使われている

 

ツヴィンガー宮殿(1948年)

 

 

 

 

 

爆撃により焼失した「ツヴィンガー宮殿」

 

フリードリヒ・アウグスト1世

 

 

 

 

 

 

 

「「フリードリッヒ・アウグスト1世」の肖像画

 

 

ドレスデン美術館

 

 

 

 

 

 

「ドレスデン美術館」

 

1750年のドレスデン市街図

 

 

 

 

 

 

「ドレスデン」の市街図(1,750年)

 

有田ギャラリー

 

 

 

 

 

有田にある「有田ポーセリンクパーク・ツヴィンガー宮殿アートギャラリー」

 

有田ギャラリー内部

 

 

 

 

「有田ポーセリンクパーク・ツヴィンガー宮殿アートギャラリー」内部

 

 

 

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